第八話 青年インカ(21)【 第八話 青年インカ(21) 】 かくして、あの夢を見た晩以来、アンドレスは、戦線を駆け抜けながら、いつしかフロレスの姿を探すようになっていた。 ここラ・パスの戦場においても、かつてのプノ戦と同じ逞しい白馬に跨り、中世の騎士さながらの秀麗な風貌に、それでいて強靭な体躯から繰り出される鮮やかな剣さばき――故に、そのフロレスの姿は、遠くからでもよく目立った。 できることなら、言葉を交わせるほど近くに行ってみたかったが、さすがに、この戦場でアパサに次ぐ副将アンドレスが、戦闘の真っ最中に敵将たるフロレスの傍近くに寄るわけにもいかず、ただ遠目からフロレスの姿を追うしかなかった。 だが、そんな、ある日の夕暮れ時―――。 フロレス自身も、アンドレスに胸襟(きょうきん)を開く気持ちになっていたのであろうか…――? いずれにしろ、その日の戦闘で、アンドレスは、己から、そう遠くはない位置にフロレスの姿を発見した。 そろそろ、その日の戦闘も幕を下ろす時刻に近い茜色の空の下、馬や歩兵たちの巻き上げる金色の砂塵の向こうで、銀色に輝く白馬に跨るフロレスの姿が目に眩しい。 アンドレスは、漆黒の馬上でサーベルを握り締めたまま、砂塵に霞む視界の中で、その瞳を凝らした。 いくら近距離とはいえ、まだ互いの間に優に50~60メートルの距離は隔てていたが、それでも、アンドレスは、フロレスの目を真っ直ぐ見つめ、俊敏に礼を払う。 大地に沈みかけた巨大な朱色の太陽を背景に、フロレスも、また、アンドレスに視線を走らせた。 そして、艶のある低い声で、周囲の白人兵たちに鋭く言い放つ。 「今日の戦闘は、ここまでだ。 兵を退(ひ)け!!」 「はっ!! フロレス様!!」 フロレスの号令と共に、彼の軍の兵たちは、その日の戦闘から整然と撤退していく。 その様子を見計らうようにして、インカ軍も武器を収め、戦場から撤退を開始した。 先刻まで、地鳴りと共に轟音を放っていた火砲の唸りが、今は嘘のように静まった戦場の一角で、アンドレスとフロレスは、暫し、馬上から互いを見据えた。 が、やがて、フロレスが鋭くも優美な動作で、傍に控える衛兵たちに合図を送る。 「ここは、わたし一人でよい。 そなたたちは、戻っていなさい」 一方、フロレスと対峙しているアンドレスの方に、周囲のインカ兵たちは、ハラハラとした視線を向けている。 そして、フロレスに不審な動きが僅かでもあらば、瞬時に飛び掛ってゆかんばかりの勢いで、野獣のように炯炯と目を光らせて身構える。 周りのインカ兵たちに、アンドレスは前方を見据えたまま、声で応じる。 「ここは大丈夫だ。 皆は、下がっていていい」 「アンドレス様…!」 まだ大いに不安そうな兵たちに、アンドレスは真摯に、しかし、決然と繰り返す。 「大丈夫だ。 皆は戻って、アパサ殿に、俺は少し遅れて戻ると伝えてくれ」 非常に不安そうな兵たちが、やむなく去り、2人きりになると、フロレスは馬で距離を詰めてくる。 傍で見れば見るほど、単に外見が美麗だというだけではない、何か強烈なオーラを放つフロレスを前にして、アンドレスは無意識のうちに身を引いていた。 そんな己を叱咤するようにして、彼は、強気な口調でキッパリと言う。 「フロレス殿、お久しぶりです!!」 「久しぶりだな、アンドレス」 フロレスは淡々たる表情のまま、感情の見えない声で言う。 そして、あの吸い込まれるような蒼い瞳の宿る目元のみを、僅かに細めた。 あれほど直に話してみたいと思っていた相手だが、いざや本人を前にすると、どこから何を切り出したものか、アンドレスは言葉を探しあぐねて口ごもる。 そうしている間にも、夕陽は足早に山の端に消え、たちまち極寒の夜の気配が満ちてくる。 ここラ・パスは、周囲を6000メートル級の霊峰に囲まれた盆地部ではあるが、この土地自体が標高3650メートルという高所にある。 吹きつける冷風に全身をなぶられながら、アンドレスは、キッと、顔を上げた。 「あなたは、何故、俺たちインカを敵に回して戦うんですか?!」 そう言ってしまってから、彼は、咄嗟に視線を落とした。 (何で、いきなり、それを言うんだ…俺は!! もっと切り出し方ってもんが、あるだろうに……!) 他方、唐突なアンドレスの言葉に、フロレスは、さして表情も変えず、微かに苦笑して言う。 「何を、今更。 わたしは、副王陛下から、反乱軍討伐を命じられている」 「だけど…!」 アンドレスは愛馬の手綱を繰りながら、真っ直ぐフロレスに向き直る。 「俺たちインカの人間が、どうして反乱まで起こさなければならなかったのか、あなたなら分かっているはずです!! ましてや、あなたは、あのアレッチェと並ぶほどの地位も権力もあるスペイン人高官なのでしょう?! あなたが、我々に味方してくれたら……」 アンドレスの言葉を、フロレスの鋭い視線がピシャリと遮る。 「今は各王領で共に総指揮官の立場にあるとはいえ(註:アレッチェはペルー副王領のスペイン軍総指揮官、一方、フロレスはラ・プラタ副王領のスペイン軍総指揮官)、アレッチェ殿は、もともとの身分が全権植民地巡察官。 しかも、彼は、その任務を、両王領で兼任している。 要するに、本来なら、わたしの上官にあたるのだ。 それ故、わたしには、彼の決定を覆すほどの権限は無い」 「で…でも、それでも、あなたなら副王に口添えを……!」 次第に冷ややかな眼差しに変わるフロレスの前で、アンドレスは、再び、口ごもった。 早くも、フロレスは、馬を己の陣営の方向に回しはじめる。 「アンドレス、そなたたちは、植民地支配を根底から否定し、独立の機を狙っている。 だが、スペイン国王も副王(註:各王領の副王が、スペイン国王の代理として植民地を治めている)も、断固として、この植民地を手放すつもりなぞない。 それは、そなたも重々知っての通りだ。 そなたは、わたしに何を副王に口添えさせたいというのだ? 植民地支配を諦めましょう、とでも?」 「それは…」 「今、この状況で、そのような話は不毛」 白馬の手綱を握り、己の陣営の方へと駆りかけたフロレスを、アンドレスの鋭い声が制する。 「待ってください!!」 アンドレスは馬上で身を乗り出した。 「フロレス殿、あなたなら知っているでしょう?! この国を植民地にした白人たちが、一体、何をしてきたか!!」 フロレスは辛うじて馬を止め、低く言う。 「アンドレス、では、そなたに聞く。 そなたの言いたき白人たちの悪行を諌(いさ)めるよう、副王に口添えすることなら、わたしにもできよう。 それをすれば、そなたは、あのトゥパク・アマルに、独立なぞという無謀な考えを捨てさせ、この反乱行為を止めさせることができるのか? そして、アンドレス、そなたは、どうだ? 植民地であり続けることを、甘受することができるのか?」 「そ…それは……」 すっかり暗闇に呑まれて、言葉に詰まるアンドレスに、フロレスは静かな視線を走らせる。 そして、今度こそ、本当に馬を駆り出した。 「フロレス殿!! 待ってください!!」 夜の闇より黒々としたアンドレスの馬が、猛烈な勢いで、フロレスの白馬の前に回り込む。 「では、もっと、現実的な話を!! このラ・パスの戦闘を、互いにとって、建設的に終わらせるために…!!」 フロレスは、やむなしというふうに馬を止めると、体半分だけアンドレスの方に向いた。 決然と相手を見据えて、アンドレスが言う。 「この戦場での戦は、完全に膠着状態です。 両軍にとって、ここでの戦が、最後なわけではないはず。 このまま戦闘を続け、無駄に消耗し合うだけでは、互いにとって全く利がありません!!」 「それは、正式な和議の申し入れか? あのアパサも、そのつもりがあるのか?」 「いえ…まだ俺の考えというだけですが…。 ですが、俺は真剣に考えて――」 「では、和議を結ぶために、インカ軍に何が妥協できる?」 アンドレスの言葉を遮ったフロレスの表情は、ますます深まる夜闇に紛れて、いっそう掴みづらい。 彼のブロンドの長髪が、月明りを受けて煌き、強風にふき流されているのだけが見える。 「アンドレス、どうなのだ?」 「それは…―――」 妥協どころか、スペイン軍に対する厳しすぎるほどの要求を断固として譲らぬ、徹底したアパサのことを思い描くと、再び、アンドレスは言葉に詰まらざるを得ない。 「それでは、話にならぬ」 フロレスの冷ややかな声音に、アンドレスは相手を逃がすまいとするように、その前途に、再び、馬ごと立ちはだかった。 周囲は、いつしか雪が舞い飛びはじめている。 「ですから、待ってください!! フロレス殿!!」 アンドレスは、夜闇の中でもハッキリ分かるほどの真剣な眼で、射るようにフロレスの蒼い瞳を貫いた。 「では、例えば…俺が、スペイン軍に投降すると言ったら?!」 「!…――」 その瞬間、さすがのフロレスも、その目を瞬かせたが、すぐに辟易とも溜息とも取れる息をつく。 「――アンドレス、本気か?」 懸命に覚悟を決めた表情をつくりながらも、その瞳を揺らしているアンドレスに、フロレスは、もう一度、息をついた。 「愚かな。 心にも無いことを」 「なっ…! 俺は……」 「そのようなことを申すそなたの真意を量りかねるが、いずれにしろ、あのトゥパク・アマルやアパサが投降すると言うならともかく、そなたでは…――」 「俺では、役不足だってことですか?!」 耳を赤くして、憮然とした声を上げるアンドレスに、フロレスは、ついに苦笑する。 「くく……まあ、そう怒るな。 投降しなくて済むのだから」 それから、厳しい口調になって、言い添える。 「第一、軽々しく、投降などと申すものではない」 「…―――」 怒りなのか恥辱を感じているのか、次第に勢いを増す雪の中で、アンドレスは地に深く視線を落とす。 「それとも、そなた、まさか本気だったか?」 俯(うつむ)いたアンドレスの顔を覗き込むようにしたフロレスの前で、アンドレスは、ギッと、険しい目を上げた。 「まさか…!! あくまで、例えばの話として、聞いてみただけだ!!」 その口調は、先刻までの持って回った控えめなものから豹変して、激しい攻撃的な色を帯びている。 フロレスは、僅かに眉をひそめた。 そして、沈着な声で、低く言う。 「『例えば』なぞという気持ちで、投降を切り出すなど、もってのほかだ。 そのような軽率な態度では、将としてどころか、人としての品格を疑われるぞ」 だが、アンドレスは、己の頭や肩に降り積もった雪を荒々しく手で跳ねのけながら、噛み付くように言い放つ。 「フロレス殿!! 俺は、あらゆる可能性を含めて、このラ・パスの戦闘を早期に終結させる方向を模索しているだけです!! 俺は、あなたに、俺が今まで知っていたスペイン人とは違うものを感じていた!! だから、あなたなら、もう少し話も分かると思っていたのに!! 所詮は、あなただって……!!」 「ふ…所詮は、わたしも、他のスペイン人と同じだったかね?」 「…っ」 「アンドレス。 そなたは、何かと思い込みが激しいようだ」 微かに苦笑を湛えながらも、鋭い目で見下ろすフロレスの前で、アンドレスは、雪で湿った前髪の間から、炯炯たる光を放つ眼を剥いた。 「とにかく、このラ・パスの奪還は、この反乱を成就させるための、ひとつの通過点に過ぎない!! 俺は、こんなところで、命を差し出すわけにはいかない!!」 「何を息巻いている。 そもそも、そなたが、投降だの、何だの、言い出したのではないか。 だが、アンドレス、そなたは、あのトゥパク・アマルの志を継ぐ者。 容易(たやす)く、命を投げ打つわけにはいくまい。 それでよかろう」 「え…――!」 思いがけぬフロレスの言葉に、アンドレスは、今にも飛びかからんばかりに乗り出していた身を、思わず引いた。 一方、フロレスは、今度は彼の方から馬をこちらに回し、真正面から真っ直ぐにアンドレスを見据える。 「それより、このような戯れごとを言い合っている場合ではない。 その様子だと、そなたたちは、まだ、知らぬと見えるが―――」 「え…?! な、何をです?!」 雪明りの中に浮かび上がるフロレスの西洋人形のような面差しは、相変わらず、表情が読み取りにくい。 しかし、その透明な蒼い瞳に、はっきりと真摯な色が宿っていることを、アンドレスは今更のように発見して、息を詰める。 他方、フロレスは、ひとしきり間を置くと、深遠な声音で言う。 「我が軍は、間も無く、当地から兵を退く。 今宵は、そのことを、そなたに伝えておきたかった」 「え?! それは、どういうことです?!」 「間もなく、そなたたちの耳にも入るであろうから伝えておくが、副王陛下から、先ほど伝令が来たのだ。 あの英国艦隊が、ペルー沖に向かっている可能性があると」 「!!――英国艦隊が?!」 アンドレスは、今度こそ本当に馬上から落ちそうなほど身を乗り出し、漆黒の瞳を張り裂けんばかりに見開いた。 「そ…それは、本当なんですか?!」 「いや、真相は、まだ明らかではない。 なにぶん敵も動きが慎重な上、まだ遠方におり、確定的な情報ではない。 しかし、本国スペインの監視団が察知した情報ゆえ、信憑性は低くはなかろう。 しからば、このラ・パスからは、一旦、撤退しても、当地のスペイン軍は両王領を挙げて、新大陸に押し寄せる英国軍を迎え撃つ準備が優先ということだ」 激しく息を呑むアンドレスに、フロレスは沈着ながらも、非常に鋭利な視線を注ぐ。 「此度の英国艦隊の到来は、まるで、この新大陸での内乱を熟知しているかのような、できすぎたタイミングだとは思わぬか? 何者かが、裏で意図的に呼び寄せたかのように」 「!…――」 「トゥパク・アマルか? あの者が、早々に、先手を打っていたのか?」 「―――…―」 興奮に昂(たか)ぶる面持ちで、しかしながら、相手の質問に、固く唇を結んだまま沈黙しているアンドレスに、フロレスは目だけで苦笑する。 「まあ、そなたに聞いたところで、そなたは、わたしには何も応えはすまい。 いずれにしろ、我が軍は、ここから兵を退く。 この戦場は、一時休戦と言いたいところだが、今のことろ、そなたたちには、当地から即時退却する理由も無かろう。 されば、我が軍がここから立ち去れば、このラ・パスは、事実上、そなたたちの手に入る。 ――これも、全て、あのトゥパク・アマルの筋書き通りというわけか……」 貫くように遠くを見据えるフロレスの前で、アンドレスは手綱をきつく握り締めた。 冷え切っていた指先に、再び、熱い血が通いだすのを感じる。 (トゥパク・アマル様―――!!) すっかり雪に覆われた地表の上で、フロレスは、ゆっくりと馬を陣営の方へ回しはじめる。 「では、わたしは行く。 機会があらば、また会おう!」 そう言い残すと、フロレスは、闇を貫く鋭い掛け声と共に、馬を駆り出した。 「お待ちください!! フロレス殿!!」 アンドレスの今度こそ必死の声に、フロレスは、もう何度目かの駆りかけた馬を止めた。 そのフロレスの傍らまで、アンドレスは、勢い良く己の愛馬を乗り付ける。 「あなたは、俺の中にある、スペイン人に対する認識を幾らか変えてくれた――! あなたには、感謝します。 できれば、敵味方ではなく、もっと違う形で出会いたかった……」 フロレスは、静かに微笑み返す。 「何を、今生の別れのようなことを言っている。 当地を奪還した後、そなたたちは、いよいよ念願であったペルー副王領での再起を賭けるのであろう? だが、これからが、真に厳しい戦いになるであろう。 如何なることが起ころうが、そなたの命、今宵のごとく、容易く敵の手に渡さず進むが良い。 命あらば、再起の可能性は常にある」 「フロレス殿……!」 まだ何か言いたげなアンドレスに、フロレスは優美な笑みを返して頷くと、再び、手綱を握り締めた。 「さらばだ、アンドレス!」 それ以上はアンドレスが言葉を継ぐ間も無いまま、フロレスの姿は、雪に霞む夜のしじまの中へと吸い込まれていった。 フロレスと別れたアンドレスは、大至急、インカ軍の陣営へと馬を馳せた。 義勇兵たちの夜営の状況を見回って戻ってきたばかりのベルムデスが、ただならぬ様子のアンドレスに気付き、すぐに馬の脇に寄って、問いかける。 「アンドレス様、何事かございましたか?」 アンドレスは馬から飛び降りると、激しい興奮の表情でベルムデスの片腕をガシッと握り、深く頷いた。 その勢いで、両者の全身に降り積もっていた雪が、ほとばしり落ちる。 「はい!! ベルムデス殿、大事な話が!! アパサ殿は?!」 ベルムデスは、己の腕を握り締める相手の握力の強さに驚きながら、一体、何があったのか?という驚きの眼差しで、アンドレスを見た。 「アパサ殿の天幕で、明日の打ち合わせをはじめておられますが」 「では、すぐに行きましょう!! さあ、ベルムデス殿!! あなたも、ご一緒に!!」 己の腕を掴んだまま放すのも忘れて、アパサの天幕に突き進むアンドレスに、ベルムデスは目を瞬かせながらも、共にアパサの居所へと向かう。 雪をものともせず煌々と燃え上がる松明の間を行くと、間もなく、アパサの天幕が見えてくる。 その中では、アパサ本人やロレンソ、マルセラ、その他にも主要な隊長らが集まって、明日の戦闘に備えて軍議が開かれようとしているところだった。 天幕の入り口の布がバッと撥ね上がると同時に、大股で乗り込んできたアンドレスに、中にいた者たちが一斉に視線を向ける。 雪まみれの姿で息を荒げているアンドレスに、アパサが、揶揄と憮然との混じったような目つきで、冷ややかに一瞥した。 「遅いぞ、アンドレス。 何だ? また、おまえは、ずいぶんと大袈裟な素振りで」 「アパサ殿!!」 アンドレスは上擦った声を発すると、アパサと、それから、やはり何事かと息詰めているその場の全員を見回して、深く頷いた。 「今、フロレス殿と話しをしてきました!!」 「え?!」 周囲の者がギョッと目を見張る間にも、すかさずアパサの怒声が飛ぶ。 「アンドレス!! おまえ、また勝手なことを!!」 次の瞬間には、激しい衝撃音と共に、アパサの豪腕に張り倒されたアンドレスの体が、無残に天幕の地に打ちのめされていた。 「!!」 さすがに愕然としたアンドレスが、それでも、唇の端から溢れる血を拭いながら身を起こそうとする。 が、それよりも早く、アパサの黒い影が獣のような勢いで迫りくると、アンドレスの胸倉を乱暴に掴み上げた。 「あ…アパサ殿…――」 「おまえが、串刺しにされようが、火あぶりになろうが、俺は知らん!! だが、人質にでもされてみろ!! インカ軍のこれまでやってきたことの何もかもを、台無しにするつもりか?! いくら相手がフロレスだろうが、あまりに軽率だろうがっ!!」 「す…すいません……」 かなり口内を切ったのであろう、口元から血を流し、胸倉を掴まれたまま、アンドレスはガックリと俯いた。 そんな彼の姿を、ロレンソやマルセラをはじめ、周囲の者たちが蒼くなってハラハラと見守っている。 鼻息を荒げながら、まだアンドレスの胸倉を締め上げているアパサの傍らに、ついにベルムデスが跪いた。 そして、深々と礼を払う。 「アパサ殿。 どうか、お手を…」 アパサは、チッ、と荒っぽく舌打ちすると、投げ捨てるようにアンドレスを放した。 そして、まだ眉を吊り上げながらも、ヤケクソ交じりの声でうそぶく。 「ふん、おまえの暴走ぶりは、どうせ、今にはじまったことじゃねえしな。 で? その様子だと、フロレスめ、何か重要なことでも、おまえに漏らしたな?」 そう言って、今度は、激昂とも、面白がっているとも取れる風体で、目元を斜めにそびやかした。 アパサの問いかけに、やっとアンドレスは顔を上げ、それから、素早くベルムデスの方に視線を走らせる。 その瞬間、ベルムデスはハッと息を詰めた。 (アンドレス様、まさか――…?!) アンドレスは、俊敏に頷いた。 そして、アパサと周囲の者たちを見渡して、天幕の外に声が漏れぬよう、低く言う。 「フロレス殿は、間もなく、当地ラ・パスから兵を退かれるとのことです!」 「なに?!」 そこにいた全員が、再び、驚愕と興奮の表情で息を呑む。 アンドレスは、相変わらず、口の端から血を滴(したた)らせたまま、さらに低い声で、自分にも言い聞かせるように続ける。 「英国艦隊が、ペルー沖に向かっているとのことなのです! フロレス殿の、このラ・プラタ副王領のスペイン軍をはじめ、ペルー副王領のスペイン軍も、まずは、英国軍の討伐に向かうと!!」 「!!」 そこにいた誰もが、衝撃の眼で、継ぐ言葉を持たなかった。 その傍らで、アンドレスとベルムデスは顔を見合わせ、言葉にならぬままに互いの目を凝視した。 かつてトゥパク・アマル様が送られた書状が、ついに……―――!! 二人は、険しさと恍惚の混ざった鋭利な眼差しで、深く頷き合う。 その二人の視線のやり取りを敏感に察知したアパサが、「おまえたち、何か事情を知っているな?教えろ」と、にじり寄るように身を乗り出した。 アンドレスたちは、暫し息を詰めていたが、もはや、事態が事態だけに、事を明かすのも潮時か、との面持ちになると、改めて周囲を鋭く見渡す。 その場にいる者たちは、完全に信頼できる固い絆で結ばれた者たちばかり、そして、それぞれの形で、トゥパク・アマルの志を真っ直ぐに継いでいる者たちばかりであった。 アンドレスは、いま一度、ベルムデスに視線を走らせる。 そのベルムデスも、アンドレスの眼差しに、鋭く老練な面持ちで頷き返した。 アンドレスは礼を払い返すと、グイッと口元の血を拭って居住まいを正し、真剣な横顔で周囲に向き直る。 「兵たちや民には大きな混乱の元となりかねないため、まだ、内密に願いたいのですが」 そう念を押した後、かつて、トゥンガスカの本陣戦の夜、トゥパク・アマルが英国の高僧アリスメンディ宛に送った手紙の仔細と、トゥパク・アマルの意図を説明していく。 ――十数年前までペルー副王領にて、イエズス会の一員として布教活動を行なっていたスペイン人の神父アリスメンディ。 アリスメンディは、やはりイエズス会の神父であったアンドレスの父ニコラスと知己の仲でもあり、共にインカ族の窮状を救うために尽力していた。 しかし、己に従わぬイエズス会に対するスペイン国王による激しい弾圧により、やむなくアリスメンディは英国へと亡命。 一方、この弾圧の渦中、アンドレスの父親は暗殺され……。 スペイン人でありながらも、スペインへの激しい復讐心に燃えるアリスメンディは、英国に渡った後、現在は、スペインに敵対する英国王室と近しい間柄の高僧にまでなっていた。 そのアリスメンディに、トゥパク・アマルは書状を送り、この国の内乱のさまを知らせ、それによって、アリスメンディのバックにある英国軍を動かし、この地のスペイン軍を叩かせ、外圧をかけさせようとしているのだ、と―――…。 はじめてその話を聞かされた者たちは、ベルムデスやアンドレスが、かつてそうであったように、皆、驚愕と衝撃と混乱の面持ちで、完全に凝固している。 長い沈黙の後、ついにアパサが口火を切った。 「トゥパク・アマルの奴…!! 何たる…何たる危ない橋を渡しやがったんだ……!!」 地底を這うような低く凄んだアパサの声音に、アンドレスは鼓動の速まりを感じつつ、そちらをうかがうように視線を走らせる。 案の定、アパサは、先刻にも増して髪をメラメラと逆立たせ、恐るべき形相で仁王立ちになっていた。 あまりに険しく吊り上った目は血走り、全身からは激昂のオーラが燃え上がっている。 その怒り心頭に発しているさまを見て取ったアンドレスは、額にヒヤリと発汗を覚えながら、懸命に言葉を探した。 先刻のアパサの強打によって切れたばかりの口内が、いっそうジクジクと痛み出す。 それでも、アンドレスは、アパサの方へと一歩を踏み出した。 「アパサ殿……」 そんなアンドレスを、焼き尽くすほどの凄まじい眼光でギリッと睨みつけるアパサの前で、アンドレスはゴクリと固唾を呑む。 一方、アパサは吐き捨てるように、がなり出した。 「あいつは……!! トゥパク・アマルは…!! 英国にいる僧と連絡を図っただと?! そんな滅茶苦茶な計略を、しかも、自分ひとりで勝手に進めやがったのか!! あいつは!!!」 「アパサ殿…!!」 アパサの口角から飛び散る唾を全身に受けつつも、アンドレスは、アパサの前に身を低めて懸命に礼を払いながら、必死で言葉を継いでいく。 「アパサ殿の案じられるお気持ちは、よく分かります!! ですが、全ては、あのギリギリの本陣戦の最中に、やむなく決定されたこと…! トゥパク・アマル様が囚われる前夜のことだったのです。 ラ・プラタ副王領に遠く離れているアパサ殿にご相談することは、不可能な状況でした! 分かってください、アパサ殿!!」 足元に縋(すが)って平伏しているアンドレスの肩を、アパサの豪腕が激しく握り締めた。 そして、そのまま襟首を掴んで、己の鼻先まで、ぐいっと、相手の顔を突き上げる。 「アンドレス…――! 俺は、トゥパク・アマルが俺に相談しなかったことに腹を立ててなどいるんじゃない! あの英国軍が、本気で攻めてきやがったら、この国は、どうなる?! いや、それどころか、もう来ちまったかもしれねぇって、そんな話ってあるかよ?! 今度は、この国は英国の植民地か?! 一体、何のために、ここまで甚大な犠牲を払って、反乱を続けてきたってんだ?!! あ?! どうなんだ?! アンドレス!!」 アパサに強く締め上げられながらも、アンドレスは、苦しい息の下から、懸命に何か言おうとしている。 「――…確か…に、アパサ殿の仰る通り、危ない橋ではあります…。 ですが、スペイン軍が英国軍と遣り合っている間に、内地を我々が占拠し、戦いに疲弊したスペイン軍と英国軍を、同時にこの国から叩き出せば…――」 「っんな、簡単にいくかっ!!! 馬鹿めっ!! 英国艦隊っつたら、あのアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊をコテンパに撃破してんだぞ!! スペイン軍なんぞより、もっとヤバイ強敵だろうが!! あああ…っ、だから!! トゥパク・アマルも、おまえも、苦労しらずの貴族だの何だのは、大事なところで考えが甘すぎなんだっ!!」 「―――…――」 顔を真っ赤に憤らせて鼻息を荒げるアパサに完全に締め上げられて、ついにアンドレスは擦れ声すら出なくなっている。 そんな二人の方へ、ベルムデスが急いで走り寄った。 そして、アンドレスの襟元に強く絡み付いているアパサの指を解(ほど)きながら、誠実な瞳でアパサに深く礼を払う。 「アパサ殿、あなた様のご懸念は、よく分かります。 トゥパク・アマル様も、その点を大変、憂慮されて、この手ばかりは、最後の最後まで使わずにおられたのでございます。 ですが、この1年間の反乱の過程と、そして、今の状況を冷静に振り返ってみますれば、我々インカ側が兵のみならず民の力までをも総動員して戦ってきましても、やはり、どうしても、敵方の火砲には抗(あらが)えず、決定打を与えることはできてはおりませぬ。 どれほど団結し、士気を高め、力を振るい立たせようとも、物理的に超えられぬ壁というのはあるものです。 ましてや、この反乱を支えているのは、実際のところ、義勇兵たちが中心。 その彼らとて、いつまでも己の田畑を離れて参戦を続けるのには、限度がありましょう。 もはや、これまでのような戦闘だけでは、埒(らち)の明かぬところまで来ていると存じます。 さすれば、トゥパク・アマル様の思い切った策は、決して、的をはずれてはおりますまい」 深い年輪の刻まれた思慮深い面差しに鋭さをも宿して語ると、ベルムデスは、もう一度、アパサの方を見てから、跪いて頭を下げた。 「ここまでの策に出なければならなかったトゥパク・アマル様のご覚悟とお苦しみを、一番、良くご理解できるのは、皇帝陛下の最も信頼する同盟者であるアパサ殿以外にはおりますまい? それに、この策はリスクもありますが、上手くことが運べば利も大きいことを、類稀なる実戦の雄であり、智略にも長けるアパサ殿なら、お分かりになるでありましょう」 「むぅ……!」 アパサは奥歯を噛み締めて反(そ)り返りながら、未だ、怒りの収まらぬ顔で腕組みをしている。 しかし、それでも、ついに吐き捨てるように呟いた。 「いずれにしろ、英国軍が来ちまったからには、もはや打つ手を考えるしかあるまい!!」 アンドレスも喉元を片手で押さえてむせながら、深く頷いた。 そして、もう一方の手で、腰に提げたアパサ譲りの剣を力強く握り締めながら、擦れ声ながらも、決然と言う。 「はい!! もはや、ここまできたら、英国軍とスペイン軍が海上で激突する機を捉え、我々インカ軍が最善の動きができるよう、万全の準備を整えておくのみです!! 恐らく、トゥパク・アマル様のことです――既に、各地の同盟者に糾合をかけ、その辺りの采配は振るわれているかと! ならば、なおのこと、我らも、早々にトゥパク・アマル様と合流を図りたい……!! 我が軍も、今度こそ、急ぎペルー副王領へと戻り、トゥパク・アマル様と共に、英国艦隊の到来に向けて次の段取りに入らねばなりません!!」 まだ、その場には、衝撃と驚愕と混乱の空気が漲ってはいたが、それでも、その場にいる誰もが、興奮に昂(たか)ぶる恍惚たる表情で、ゾクゾクと全身に武者震いの走るのを感じずにはいられなかった。 かくして、いよいよアンドレス軍が、ラ・プラタ副王領での勢力を維持すべく当地に残留するアパサ軍と離れ、ペルー副王領へ帰還の進軍をはじめた頃、スペイン側の動きはどうなっていたであろうか。 アンドレスがフロレスから英国艦隊の到来を知らされるよりも少し前、ペルー副王領リマのインディアス枢機会議本部の執務室で、かのアレッチェが、非常に苦々しい表情で葉巻をくわえたまま、荒々しく書類をめくっていた。 ペルー副王領の反乱軍討伐隊総指揮官アレッチェ――彼は、本来の植民地巡察官たる職務も再開しつつ、現在もインカ軍の残党を叩き潰しながら、且つ、脱獄したトゥパク・アマルの捜索をも執拗に継続していた。 そして、次なるインカ軍との本格的な決戦に備え、火器類の生産に、いっそうの熱を上げていた。 だが、そんなある日、本国スペインから、まさかの衝撃的な内容の司令書を受け取ったのである。 その重要書類を睨みつけながら、アレッチェの脳裏には、未だ行方の掴めぬ、あの男――トゥパク・アマル――の姿が生々しく甦る。 (まさか…? 謀られた……―――?!) アレッチェは、半ば引きつるほどに激しく吊り上った険しい眼で、再び、書面に視線を走らせる。 その衝撃的な指令書の内容は、さしずめ下記の通りであった。 『英国の艦隊がペルー沖に向かっている。 ジョンストンの率いる英国艦隊は、2戦艦(大砲計114門)、4巡洋艦、輸送船若干を持ち、これにパリアの率いる4戦艦が伴っている。 他にインディオの反乱軍に渡すべき武器を1万5千点積んでおり、相談役としては、スペインに恨みを持つイエズス会の僧アリスメンディが乗り組んでいる。 英国艦隊は、ペルー沖のアレキパ近くの海岸に向かう可能性があり、此度の反乱の中心ティンタ郡(註:トゥパク・アマルの出身地、且つ、領地)に近く、非常に危険である。 即刻、厳戒態勢を要する。 なお、彼らは上陸後、反乱軍と連絡する可能性がある。 大至急、英国艦隊の攻撃に備えよ』 アレッチェは、書類を机上に激しく叩きつけた。 「…っ……!」 既に鬼のようになった形相が、さらに突き上げる憎悪と憤怒のために醜悪に歪み、苛烈な赤黒いオーラがメラメラと燃え上がる。 (まさか、トゥパク・アマルが、早々に手を回していたのか…?! だが、いくらなんでも、このような、あの者どもにとっても危険の大きいことを?!) アレッチェの強く握り締めた拳が、わなないている。 (いや……有り得る!! いかにリスクがあろうが、我がスペイン軍を最も窮地に陥れる方法は、結局、これだと見切っていたのだとしたら…! ならば、あの男が、どこかで、この手を打ってくる可能性を予測しておくべきだったのだ――!!) あまりに強度の切歯扼腕のために、アレッチェの、その歯も、腕の骨までもが、実際に砕かれそうなほどにギリギリと不快な音を立てて鳴っている。 「おのれ…トゥパク・アマル……!!」 アレッチェは、激しく拳を机上に打ちつけると、大股で執務室のドアに向かう。 そして、ドアを蹴り上げて開くと、荒々しい怒声で乱暴に部下を呼びつけた。 「即刻、バリェ将軍を、ここに呼べ!! それから、すぐに、ラ・プラタ副王領のフロレスに伝令を飛ばすのだ。 大至急、わたしの元へ参じよと――!!」 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第九話 碧海の彼方(1)をご覧ください。◆◇◆ ジャンル別一覧
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